さいたま市の川合運輸株式会社です

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久しぶりに付録CD鑑賞

午後から久しぶりにCDでゆっくり音楽を聴きました。

但し、だいぶ数多くの曲。しかも一部分だけ。

途中で終わってしまうので、物足りないのですが、次々変わるので、それはそれで。

半分読書しながらですが、終わりかけはいい気分になって寝てしまいましたので、あとで再度聴き直し。

実は本に付属のCDだったのです。

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カエサル暗殺

3月15日はカエサルが元老院の議場で暗殺された日。

突然カエサルが出て来ましたが、3年前に塩野七生著の「ローマ人の物語」を読み始めてから、翌年にⅣ巻にカエサルが登場し、次のⅤ巻で、カエサルが暗殺され、丁度読み終えたのが3月15日だったので、よけいに印象強く覚えています。

このローマ人の物語。あまりに長編で、とても読めないだろうを思っていましたが、とりあえず1巻と読み始めて、思いの外細切れの時間で読み進み、しばらくの後には日課のようにもなりました。

カエサルは刺された時に、胸の傷が致命傷であることを悟り、倒れるときにトーガと呼ばれる着衣が乱れないように、すそを巻きつけることしか出来なかったとされています。

この3月15日という日は西欧人であれば、すぐにカエサル暗殺の日であるというのは常識であるくらいに西洋史のなかでは劇的な一日なのだとか。

ちなみに紀元前44年3月15日なので、2056年前で正しいですか?

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落ちの沢

会津藩は、南部領の一部、陸奥に移封され、名前も斗南藩となります。藩存続に感涙し、将来に希望と託したものの、当時はまだ半年間雪に覆われた痩地、火山灰地であり、とても一同を養う土地ではないことを誰一人知りませんでした。

「終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。・・」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。」※

本を読み終えて後、あまりの強烈な印象に、当時の柴五郎少年が餓死と戦った、落ちの沢という地。一体どんなところだったのか。何か機会があれば、それこそ厳寒の季節にと思っていたのです。

大湊線の終点まで行き、折り返しの時間を利用して、駅でタクシーの運転手さんに事情を話したところ、すぐ通じました。

特に何もないがこの路地を真っすぐ進み、鳥居を右に曲がったあたりがそうで、札がでていると、雑木林の入口で教えられ、ずぼずぼ雪に埋まりながらその場所へ行きました。


その時間は少々陽もさして、雑木林に雪もキラキラ光り、今となっては当時を偲ぶのは無理なほど綺麗な光景でした。

帰り道、運転手さんが教えてくれたのですが、現在までもずっと定期的に旧藩士の供養のためのお供えを続けている老人がいらっしゃたとの話しです。ところが、つい先日お亡くなりになったところだとの事でした。これからはどうなるかなあとも話されていました。

列車の時間までまだ少しあるからと、海岸にある、上陸の地の碑なども案内していただけました。そして駅までと再度車に乗り込もうとした時にふと見上げた山の頂上。なんだか異質な建物が。

これが最近建てられたばかりの防衛のためのレーダー施設なのだそうです。
運転手さんも、山容が変わっちゃったね、とぽつり。

時代は移り変わりながらも、波は絶え間なくやってくるものなのだと、なおさら実感したのです。

※石光真人編著「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」中公新書 より

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戊辰戦争

「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」

おどろくべき内容。本当に衝撃を受けました。

日本の近年でありながら、歴史とは勝者の歴史?と考えされられます。
このあたりの歴史は数々のドラマがつくられ、現在なおテレビでもとりあげられていますが、まだまだ知られていない事実があるということですね。

単に「戊辰戦争」の四文字で通りすぎてしまうわけにはいかないのです。

少年期の柴五郎の目で見た当時の状況、心情が正直に綴られた第一部「柴五郎の遺書」は100頁少しの内容。これは実際に読んで頂くしか伝えようがありません。

他にも「石光真清の手記」(四部作 中公文庫)が挙げられていましたが、これも明治期。櫻井よしこ氏によれば、日本人の誇りと勇気を取り戻せるに違いない本を、と考えて選んでみたら、すべて明治の人の記録だったとの事。

石光真清は明治、大正期を、シベリアと満州での諜報活動に身を投じた人です。こちらも大陸での壮大な物語のような詳細な手記。

それまで「坂の上の雲」などを読んだりしても、どうも日露戦争時の日本と、その後の昭和期とで、断絶感とでも言うようなものを感じていたのです。ところが、今回の本を自分なりにその間の一部が埋められたように思います。

明治維新当時の日本に生まれた人の特殊な環境が、本来植民地化されてしかるべきの運命を奇跡的に変え、そして国としての組織が本格的に出来上がった頃に歪がすでに生じていたのではないでしょうか。

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柴五郎

ちょうど4年ほど前になります。経済的に激動の年となった2008年の暮れに経済雑誌のコラムで櫻井よしこ氏が、いまこそ政治家、お役人それに多くの読者にお手本として薦めたいと紹介していた本の一冊を正月に読み、相当な衝撃を受けました。

石光真人編著「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」中公新書。

柴五郎は会津の上級武士の五男として生まれました。

会津藩主は大政奉還の後、祖宗以来の労苦を慰労され、皇国の維持をとの詔勅を賜りながら、その前日に会津討伐の密勅と錦旗が薩長にくだされます。

藩主が戦火を避けるために謹慎し、強硬論を抑えるものの会津討伐が迫るなか、城下の様子は一変します。

家の中も皆が寡黙になり、大人は小声で何事かを相談することが多くなりました。そんなある日に、10歳の少年だった五郎だけが、散策を名目に城下から郊外の山荘に連れて行かれ、その翌日に城下では討伐軍の侵入による騒乱がはじまりました。

騒ぎを聞き、山荘から燃えさかる城下に向かったものの、あまりの火の勢いにこれ以上近づけないことを悟った少年が、「口惜しさのあまり母上、母上と叫びながら、地をたたき、草をむしりて号泣す」。

翌日、山荘を訪れた親類の老人から、敵の城下侵入に際し、退去を拒否した祖母、母、姉妹が自刃し、頼まれて介錯し、家に火を放ったと事の次第を教えられます。
「幼き妹までがいさぎよく自刃して果てたるぞ」と聞き、眩暈してそのまま数時間気を失います。

それから2ヶ月の間、毎晩、一家団欒の夢を見、目が覚めるごとに愕然とする日々を送りました。

その後、城内に篭っていた父・兄とともに江戸へ俘虜として収容された後、移封された地が、冬には厳寒の作物もろくに育たない陸奥で悲惨なる飢餓を味わされたのです。

柴五郎はその後、下僕として働きながらも軍に入り、北清事変(義和団の乱)で活躍し、藩閥外ながら陸軍大将、軍事参議官にまでなりました。そして敗戦の年の12月、少年の時に自ら拾い集めた母・祖母・姉妹の遺骨とともに永眠されました。

この本は、柴五郎が晩年、葬り去られた歴史を、自らの菩提寺に納め、肉親を弔いながら自身も眠りにつく目的で筆記した書を、たまたま編者に文字の添削を依頼したことから世に出たのです。

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書類

今日は久しぶりに一日中、机の書類の処理やら入力など。
紙を使うことが減ってきたはずですが、毎日郵便物は届くので相変わらず格闘してます。
ファイルするもの、入力してファイルするもの、読み込んでから仮保存、破棄・・。確かに保存一方ではなくなって、PC主体にはなってきた。

なので、例の袋ファイル原則も少々崩れ気味。そうすると、すぐ処理する予定だからいいやと、適当にクリアファイルに入れて出掛けにカバンに入れたりすると、そういうクリアファイルばかりになって、どうも処理が遅れてしまう。

今日は久しぶりに、郵便物としてきた角2の封筒を、上から1.5センチ位のところでザクザクと裁断しているうちに、「やっぱりこの袋ファイルと、PCのフォルダって同じだなあ」と実感。「超整理法」の野口悠紀雄氏も、時間軸の袋ファイルの整理法は、PCのデータを管理しながらヒントを得たというような事が書いてありました。

惜しげも無く使えるのがいいですね。たとえ数日しか使わなくても、問題なし。数年たっても別に痛まない。

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昔の授業3

さて、ゆとり世代の子供にも何と投票券が送られてくる時代になりました。

あの授業のとき、私は先生がなぜ攻めてこないと言えるのか疑問でした。
そしてそれから30年以上経ちましたが、漁船が銃撃されるなどの事件は発生しても、確かに攻めては来ていません。

それは日本には米軍がいるからだということは今は理解ができますが、問題はその先。

このような問題については、そもそも習う機会もなければ、あれこれ考えたりするような環境になかったというのが実際のところではないでしょうか。

現在、日本を取り巻く情勢はかなり複雑になっていて、ごく普通に安易に目に耳に入っていくる情報ではとても判断できるものではありません。

歴史の問題も、つねに複数の立場から考えられるようにならないと本当のことはわからなくなりますね。

私もほんの数年の中で、読んだ本であらためて考え方を改めさせられた事は数多いです。子供にもそのように色々な見地から考えられるようになってほしいと思います。

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昔の授業2

一人ひとりが発表するため、2回位の授業に分けられたと思いますが、いざ発表がはじまると、当然なのか、意外なのか、防衛力は不要との意見が殆どでした。
特に女子は、「戦争になったらどうせ負けてしまうのだから、みんな死んでしまうのだから」防衛に力をいれるのは無駄だという考えが多かったのです。

当時は現在よりも非常に自衛隊への風当たりは強い時代。防衛費の問題も盛んに新聞で取り上げられていました。

さて、後半に私の番が来ました。クラスの大半の意見というよりも、先生の考えは防衛力強化などもってのほかというだろうとは想像できたので、正直躊躇はありましたが、とりあえず、そのまま「しっかりとした防衛力」の意見を述べました。

さて、全員の意見が終わった時点で、先生からの感想が始まったのですが、意見らしい意見がなかったとしたうえで、逆に私の意見は名指しで、自分の意見を持っているとして、ある意味評価されました。

少々意外に思ったのですが、それもつかの間、それでは最後に私の意見を言いますと前置きして、話しだした途端、いつもとは比べ物にならない迫力で一気に話しを進めました。
要点は「防衛力は必要ない」「外国は攻めてはこないと識者は分析している」というものなのですが、とにかく迫力がものすごかったのです。
もちろん教室内はシーンとなり授業は終わりました。(続く)

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昔の授業

私の子供はゆとり教育の世代。お気の毒とも、ちょっと責任者でてこいとも思います。
でも、その時代での教育の方針の影響というものはどの世代でもなにかしらあるのだと思います。

最近の日本を取り巻く情勢を見るにつけ、思い出すのが高校時代の公民の授業。
担当の先生は、熱血派の先生でした。

教科書というよりも、別のテキストで主に授業を進めていました。とくに福祉の事を重視して、政府の福祉への配慮の無さを強く指摘していました。

でも話が面白く、授業は活気のあるものでした。

印象深いのは、日本の防衛力についての授業。
このときはめずらしく、各自が一人ずつ前にに出て、自分の意見を発表するということになりました。次回にその授業を行うので考えをまとめておくように言われました。

いざ自分の意見といっても、当時、そうそう防衛について考えていたわけではありません。本屋で、いくつかの本を見ながら、自分の感覚にしっくりくるものを探して読みました。

そして読んだ本の影響もあり、いずれ、北海道が占領されるのではないかという思いから、ひとつの国であれば、自国でしっかりとした防衛力をもつのが当然ではないか、という意見にまとまりました。

当時はもちろん冷戦時代。鉄のカーテンなどとも言われていた時代です。情報収集と思われる不審船が現れたりと、一体何を考えているのだという恐怖感がありました。
北朝鮮による拉致事件は丁度この頃に発生していた事になります。(続く)

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のぼうの城

先日ふれた「のぼうの城」。以前に読みかけの小説を読み終わったので、大須つながりで、映画館へ。

丁度、昨日は夕方に原作者の和田竜氏の舞台挨拶があると聞き、折角だからとその時間帯にて鑑賞。舞台挨拶の締めは会場内全員で、映画の中で農民がやっていた鬨の声を。エイカ・エイカ・オー!と手も振り上げて三唱。

映画は大ヒットで、特にさすがに埼玉では大人気で、リピーターまででているそうです。もともと脚本が先で、映画化をすすめるために、あえて原作者に小説化を依頼、その後、映画化にこぎつけとの事。

埼玉で人気なのは、案外知らなかった痛快劇というところなのでしょうか?
私としては、小説を読んだ時点で、特にのぼう様が「戦いまする」となった直後、納戸の中での騒ぎ。「・・・これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。・・」。現在までも延々続く不条理にたいする率直な慟哭。それに自然に反応した坂東武者。
読んでましたから、映画のシーンでは待ってましたと、さすがに胸の震えをおさえるのがやっとでした。

はい。わたしも嫌じゃ。私も許さん。世の習いなど。

舞台挨拶の冒頭、ここは写真オーケー。ブログでもツイッターでもどうぞとお許しが出ました。原作の和田竜氏です。

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