さいたま市の川合運輸株式会社です

7月 2012Monthly Archives

コンクール会場

吹奏楽の甲子園となっていますが、私が吹奏楽部にいた頃は、「普門館」という名前自体聞いたことがありませんでした。もちろん全国大会が遠かったこともありますが、そもそも普門館自体が落成して5年位の頃。そして、中学・高校の部でほぼ定期的に使用されるようになったのが、私が中学3年生の時。

それまでは、毎年いろいろな場所で開催されていたわけです。
それで思い出すのが、1年生で入学間もない頃の先輩の勧誘。ポスターにも書いてありましたが、さかんに、「今年の関東大会は新潟に行けるぞ」「全国に進めたら北海道だ」と旅行みたいな感じですすめられたのです。

先輩たちは関東大会は自信があったようで、本当に1年生のときは新潟に行きました。予算の関係で女子の1年生は留守番で、男子1年生は楽器運びなどで手伝うという役目です。
全国にはいけませんでした。今調べてみると、それまでは全部門が同一の会場でしたが、この年には北海道は職場・高校で、一般と中学は秋田になっていました。丁度、過渡期で変更があったのかもしれません。

ところで翌年は関東大会が水戸、さらに翌年は埼玉(県大会と同一場所の埼玉会館)とだんだん近くなりました。

普門館

今年の全日本吹奏楽コンクールの全国大会の会場が、普門館から名古屋国際会議場センチュリーホールに急遽変更になったようですね。
何しろ「吹奏楽の甲子園」と呼ばれている普門館ですから、全国大会に向けて取り組んでいる方々には、大変残念なことです。

耐震強度不足が調査によって判明し、使用を中止することになったのだそうですが、今後、この建物をどうするかは、現段階では決まっていないようです。

新しい施設だった川崎のミューザが、あの状況でしたので安全を第一にという判断はやむをえないと思います。

ところでこの普門館、1977年と79年にカラヤンがベルリン・フィルを率いて演奏したというのは今回はじめて知りました。

5千人近い収容能力と、駐車場の規模が、吹奏楽の全国大会には必須だったようで、確かに、県大会の会場でも楽器の搬入・搬出はスケジュールが分単位で決まっていて、車両は途中で別の場所に待機する必要がありますから、結構大変なのです。

早くめどがたって、皆さんがあの黒光りする舞台に立てるといいですね。

もうすぐコンクール

毎年繰り返し思うことですが、吹奏楽部のお客様からコンクールに向けてのご依頼をいただくようになると、あっ、もうそんな時期かと思ってしまいます。

お客様の中には7月後半に合宿をされ、帰ってくると本番前のリハーサル、そしてすぐコンクール日という日程になっています。ですので皆さん、さぞや忙しいことと思います。
私が中学で所属していた頃は、一学期が終わって夏休みに入ると練習三昧で、日曜日以外がすべて練習日で、8月の後半にみっちり合宿となっていたので、暑い夏すべてが練習漬けでした。そして今のように極端な気候でもなかったので、9月のコンクールはまさに「秋」という感じだったのです。

練習期間で比較すれば1ヶ月から1ヶ月半程は差があるので、結構大きいですね。それでもコンクールでは皆さん素晴らしい演奏をされるのですから、先生と生徒さんが一丸となって取り組まれているのだと思います。
本番まで早い場合にはもう3週間位になりました。頑張ってください!

JR福知山線尼崎脱線事故3

それでは裁判の判決などは別にして、本来どうするべきであったのか。ということが問われます。
事故を予見できたのか、出来なかったのか。
これは、「想定できたのか」「想定できなかったのか」と言い換えると、まさに現在の原発事故の問題を経た私達には、福知山線事故の当時とは違う視点から考えなければならない事になってしまいます。

当時の常識では「予見できなかった」としても、ある一定の理解を得られたとしても、現在の常識は変わりました。
ミスをした社員に対し、ペナルティの意味合いを含む教育がなされていたとしたら、戦後の「貴様らは・・」とは時代を飛び越えて、新たに「精神論で・・」との批判は受け入れざるを得ません。

常識では考えられなくとも、人間が操作すれば起こりうる危険は「想定できる」事象に入ります。乗客の命を第一に考えれば、積極的により安全な装置の導入を計画的に進めなければならないという判断が正しいと思われます。

それでは、鉄道会社には、そのように判断すべきと考えた人はいなかったのでしょうか。
ここで、以前にホームの安全の事で触れた、鉄道技師に島秀雄氏の話になります。
島秀雄氏は生前、ホームドアの件とは別に、鉄道の進むべき方向として、「鉄道車両の運転は完全に自動化し、人間は安全確認に注力する」と主張していたというのです。

島氏は、専門家としての膨大な事例・研究から、おそらく早い時期に、人間による操作の正確性に限度を感じ、既に進むべき方向性は見えていたのではないかと思われます。

ただ、現実の鉄道会社の運営側としてみると、輸送需要の増大化の過程、そして人口減による旅客数の減少の時代と、常に、目の前の事象に対応を迫られ、「理想」は後回しにならざるを得なかったとも言えます。これだけ相互乗り入れなど、複雑化した路線に、さまざまな種別の列車が行き交う大都市圏の車両、しかもこれだけ高密度で運行されている鉄道車両を自動化するには、一体どれだけの・・。それにかかる費用は?・・、新たに決定された整備新幹線の予算は?・・ ・・・

「人」のために、よりよい道を考えるには、経済的な常識から離れて、それこそ極端に言えば「理性と英知」にまで踏み込まざるをえないほど、現在の私達につきつけられた問題は重いのです。

JR福知山線尼崎脱線事故2

私はこの事故については、裁判のことはもちろん専門外ですし、鉄道についても当然専門外ですので、あくまで私見になります。

記事にかかれている「ATS」の設置を怠った、というところ。この場合のATSは、赤信号を無視したときに作動するという事ではなく、より進化したATSのことを指します。区間により定められている速度をオーバーしていたときに急ブレーキを作動させるものです。この装置は他の路線では既に設置されていますが、どういう基準で判断されているかは、こちらでは不明です。

新幹線だったらCTC、山手線のような路線ではATCなど、路線の性格、列車密度などで優先的に整備するシステムの選択、方向性が決められているものだと思います。

福知山線の事故現場は、長い直線区間が続いた後、神戸線が通る本線に合流するように曲線で尼崎駅に向かう区間の、曲線が始まったところで発生しました。
曲線を通過するときの速度は、当然直線区間で走行する速度よりも大幅に減速することが定められています。しかも十分に安全を見込んで、物理的に転覆の恐れがある危険な速度よりも、より低い速度に設定されています。しかも、曲線がはじまる地点では既に、安全な速度に落ちていることが大前提になっています。

鉄道会社で運転士として勤務できるようになるまでには、相応の訓練・試験が必要であり、この曲線での減速という大原則を理解していなかったとは、とても思えません。

ある意味、鉄道会社の側にたって考えるならば、今回の事故を予見できたかというと、「出来なかったと」なるのが、その「当時」の常識からすれば妥当とも言えなくもありません。

ところが、今回の裁判の報道の中で、会社側に対し教育を「精神論を優先し・・」との記述が見えました。50年以上経て、状況が全く変わった中で、新たにそのような視点での批判がなされたことになります。(続く)

JR福知山線尼崎脱線事故

JR福知山線の尼崎脱線事故の歴代の社長の責任を問う公判が始まったとのニュースがありました。
列車を自動的に停めるための装置の設置を、利益を優先して怠ったという責任を問うものです。
装置はAUTO TRAIN STOPを略してATSといいます。これはもともと、うっかりとして信号の見落とし、止まらなければならない赤信号の地点を通りすぎてしまった時に、自動的に急ブレーキを作動させるものです。

例えば、単線の線路で、行き違いの駅で、前方から列車がこちらに向かって走行しているときに、駅の出発信号機が赤を示しているとします。ここを止まらずに行き過ぎた場合には、列車は正面衝突をしてしまいます。こういうこと未然に防ぐための装置です。

この装置が採用されるようになったのも、戦後、悲惨な犠牲者を出した鉄道事故が発生してからの事です。それまでは技術陣が設置を主張しても、「貴様は安全を機械に頼ろうとするのか!」と、あくまで「精神論」で反対されたとか。

さて、福知山線の事故に至る、直接の経緯は、おそらく今までになかった事と思われます。事故発生直前の速度は時速130kmほどと聞いています。性能が良くなった昨今の電車と言えども、アクセルを踏んで吹っ飛ばすというようなクルマとは違います。相応の時間を加速する意思をもってコントローラーを操作しなければ、そこまでは速度はでません。JRの場合、新幹線以外の在来線では130km出す列車は、特急列車のごく一部でしかも区間も限られています。

要するにそれまでの、「極稀に起こる信号や速度制限指示の見落としなどによるミス」による事故を防ぐための措置、という範疇の事故ではないと思われます。

停止位置をオーバーしてしまった事、それにともなう遅延、そしてそれが報告され、それなりのペナルティを課されるという精神的苦痛が、正常な判断をできなくしてしまったという状況であったと思われます。

そうであるならば、亡くなった運転士の方の、適性・資質にも問題があったと思われます。ただ、世代がわかれている職場。昔の世代ならば我慢できたことが、若い世代の人には受け入れがたいという事もあると思いますし、そのあたりの事情は部外者には全くわかりません。背景から考えるのも限界があります。 (続く)

想い

現地の方々とは、再訪を約束して帰途となりました。
被災地の生の声は、やはり直接聞かないとわからないことも多いようです。
マスコミのインタビューに答えても必ずしも、そのまま伝わらないこともあるようで、そのようなことから、だんだん話すことをやめてしまうという事もあるようです。
風評被害の問題も非常に複雑。自力で何とかしたいという気持ちを皆さんが持っておられることもよくわかりました。

皆さんとの話の中で強く印象に残る、皆さんが伝えたいこと。

「とにかく皆さんに足を運んで来て欲しい。」
「想いを寄せていて欲しい、想いを共有して欲しい。」
「私たちのことを忘れないでほしい、そして震災のことを伝えて欲しい。」
「そして震災復興の活動を通して、みんなが自分たちの生き方・暮らし方を考えていただければ」

これからたくさんのことを学び、細く長く、応援させていただきたいと思っております。

栗原市にて

翌日は場所が変わり、内陸の栗原市。こちらの地域は、震災時では最大の震度を記録したところです。

酪農家の作りたてアイスクリーム あいすむら 有限会社小山牧場の小山さん。


安全安心な牛乳を生産するために、大変な努力をされています。アイスクリームはとても美味しいです。

このお店で買える、栗原ブランド・一迫のなたね油。昔ながらの鉄釜を薪でゆっくり抽出、香ばしい油ができます。この会社は有限会社長崎高原ファームの狩野さん。実は、こちらでつくられたお米を、弊社で以前運んでいたことがわかりびっくりでした。

続いておなじく栗原市のくりはら直売館よさこい。
こちらのお店のひとつ、栗原産野菜とおそうざいの「旬鮮彩菜わくわく」で売店を働かれている黒澤さんは、弊社の元社員だったかたのお姉さんでした。この地域は弊社の元の営業所にも近く、このように関係した人に会えました。
風評被害の影響もあるなか、皆さん頑張っていらっしゃいます。

あいすむら 小山牧場  宮城県栗原市一迫字屋敷田18-1

くりはら直売館よさこい 宮城県栗原市築館字照越永平1-1

南三陸の現状

先週後半、弊社専務が宮城県の被災地情報収集に団体参加しました。

もともと、弊社と東北は深いつながりです。高度成長期に東北地方の各地に電子部品関係の工場、そしてその協力会社などが次々出来て、その各地を定期便にて毎日、運行し、埼玉・東京を結んでいました。その運行の殆どを、宮城県の乗務員さんが担当し長年、安全に運行を遂行されたのです。時代が変わり、今度は次々に工場の閉鎖などが相次ぎ、取扱量も減り、昨年の震災の前年の終わりに定期の運行は終了していました。
以前に運行していたルートには大変な被害を受けている地域が多く、皆さんがどうされているかも今となってはわからない状況でした。

初日は石巻・南三陸方面でした。
南三陸の合併前の旧志津川町にもお客さんの工場がありました。もちろん、そのあたりは現在は何も残っていません。
幸い、県議でいらした元社長さんは健在でしたが、同じ地域の議員さんの多くが、震災時、丁度会合で集まっており、避難先が防災庁舎で、避難を呼びかけながら命を落とされた女性と同じ建物で多くの方が亡くなられたということでした
助かった方の話では、一回目の津波が引いた後、家に戻ってしまい、次の津波で亡くなれれた人も多いとのこと。明け方まで津波は繰り返したようです。

復興に関しては、一言で言えば、まだ何も始まっていないという事です。特に、被災した中小企業に対しての救済は何もなされていない状態です。
そのような中、だからこそ自力で立ち上がっている経営者の姿が大変印象的だったとの事です。

2012年4月11日、第二創業を始められた会社
丸平木材株式会社

自宅・会社が流されていくのを目の当たりにしながら、すでに営業再開された鮮魚店
株式会社ヤマウチ(山内鮮魚店)

トム・プロジェクト主催・舞台「骨唄」

昨日、トム・プロジェクト主催の舞台「骨唄」を観ました。

出演は高橋長英さん、ミュージカルで活躍の新妻聖子さん、映画「恋の罪」で話題の冨樫真さん。今回が三度目の公演との事です。

骨咲キ乱レテ風車(かざぐるま)・・・九州の千坊村にあった奇妙な風習。
劇団桟敷童子率いる東憲司さんの作・演出はいつも独特の世界を醸し出します。
開演前の舞台にはすでに、たくさんの白い風車がカサカサと音を立てながら回っています。舞台の一番前に柵のようなものが設置されていて、そこにも風車がたくさん・・・
何が始まるのだろう?
非現実的な雰囲気のなか、ストーリーは現実の世界で進みます。
そしてラストの演出。

何とも言えない感動で終わる舞台です。なんだかこの「骨唄」、風車のひとつはいつの間にか自分にも入り込んでいて、これからも時折カサカサと回り出しそうです・・。

トム・プロジェクト HP

プロデューサー岡田潔の夢吐き通信

岡田潔著 「わが心の博多、そして西鉄ライオンズ」 舞台「エル・スール」のもとになったエッセイ!新聞各紙の掲載記事がご覧になれます。