さいたま市の川合運輸株式会社です

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昭和一桁 創業間近い時代

この写真も昔の社報の冊子に載った写真です。最近、おそらくはこの印刷に使用したと思われる台紙付きの写真が見つかりました。

場所は川越、旧市街に近いあたりです。左側に見える参門は川越夜戦で有名な東明寺です。
運転台にいるのが創業者の祖父・川合秀丸です。荷台に立っている前掛けの子供が先代の父・川合政一です。
先代の見かけの年齢からすると、まだ創業前の昭和7、8年と思われます。

ひときわ目を引く、バイクに乗っている人が、後の最初のお得意様になる、農機具などを製造販売する会社の社長さんです。
この会社の新製品の出荷を記念しての写真だったのではないでしょうか。

義理の叔父によれば、この社長さんと祖父が一緒にトラックに乗って、あちこちをまわり、製品を売って歩いたということなのです。
当時では、ある意味それが先端の販促活動だったと言えるのでしょう。

創業は昭和10年、中古のT型フォード1台とありますから、この写真の時期の後、運送業として発足したことになります。名前もお客さんの商品名にちなんで「日の出運輸」。
その後、お得意さんの工場の移転と同時に、会社も移転したのが、昭和15年。丁度、国鉄の全身である鉄道省の川越線の開通の年で、場所もその川越駅の近くでした。

対策の策定

私が配車業務についてまもなくの頃は、まだ問題の原因を多方面から分析するという事はあまりなかったと思います。
お客様との間でも、問題が発生した時には文書で原因や対策などを書面にして提出することになった頃で、どちらかというとその書面自体を作成するのに注力していた時期でした。
しかし同じ問題が再発すれば、だんだん対策も複雑になり、手順も増えてしまい現実的でない対策が出来てしまいます。そのあたりが大変苦慮する事でした。

最近、お客様との定例の輸送品質の向上のための会議で、原因をひとつあげ、それはなぜか、さらにそれはなぜかと、どんどん原因をつきつめていく方法を知りました。
この方法で非常に良いのは、現場の人の声をより多く聞くことになることでした。
ひととおり、聞き取りを終えたあとの雑談でヒントになる話題が出たこともありました。
輸送業務・作業は、事故ミスなく完了してこそです。間断なく品質向上への努力が求められるのです。

日光 検証鉄

週末にたまたま鉄道の業務改善の報告の記事を読む機会がありました。

2社が相互で運行する観光主体の列車。運行してまもなく、途中の乗務員交代の地点での操作ミスが1回発生しました。押さなくて良いスイッチを押してしまった。
対策のため、その地点の手前からスイッチに目立つカバーをつけることにしました。

その後、そのカバーを付けること自体を忘れてしまう、直前でスイッチを押さなくて良いことに気づいたなどの事例が起きていることがわかり、まもなく2回目の操作ミスが発生してしまった。

抜本的な対策として、カバーの改良とともに、2社での扱いの違いを協議の上、共通化。さらに、現場の人の声から、間接的な要因もつきとめます。観光列車ならではの接客面の特殊性。精神的な負担を軽減するための対策も考えられました。
さらに、物理的に、その時点でスイッチに手が届かなくなるように、立ち位置も指定されました。

ミスの再発防止の対策、原因の分析などは私の会社でも以前より色々と苦心してきました。直接的、間接的原因をどんどん掘り出していく手法も最近取り入れました。
ただ、対策を講じる中で問題なのは、それがいかに確実に励行されるかということです。で、今回興味をもったのがそこのところ。同じ出かけるなら、その列車に乗ってみようという事になったわけです。
結果は、さすが。報告の記事通りに行われていました。

ネットワークとトラック

昔から協同組合という形がありますが、もちろん輸送業界にもさまざまな組合があります。
先代の時代に地域での協同組合の立ち上げがあったのですが、なかなか理想通りにはいかず、私が入社した頃にはすでにその組合からは離れていたようです。
代わりに現在では貨物斡旋を目的にした組合に加盟しており、燃料の共同購入などでも利用しています。

この協同組合というのはアメリカにはないそうです。代わりに中小の輸送会社は独自にネットワークを組んで補完しあっているようです。

インターネットの普及に伴い、輸送業界でもだいたい十年位前より様々なネットワークが立ち上がってますが、当初は仲々思うようには広がらなかったように思います。業界特有の様々な問題を抱え、幅広い賛同が得られずに当初の目的を達成できなかったケースもありました。

今はネットワークを組む選択肢は広がりましたが、これからは益々、輸送のレベル、会社の姿勢も問われる時代になります。積極的にレベルアップのための新しい取り組みをとりいれていきたいと思います。

旧国鉄の貨物ヤード

興味のあるジャンルで自動的に録画されたビデオ。昔の貨物操車場の映像を話題にした内容でした。

ここ何年かで新三郷駅周辺にオープンした大規模なショッピングセンター。この広大な敷地が元鉄道貨車の基地だったということを知っている人は多いでしょう。
もちろん私も知ってはいましたが、国鉄の終焉と、無駄になってしまった貨物ヤードの象徴として覚えていただけでした。

番組では、この基地の役割、仕組み、施設を完成されるまでの各種の試験の様子を映像で解説していました。当時としてはコンピュータを使用した最先端の実験的施設でした。
各地方から到着した貨車を切り離しながら、自動で動かし、各行先別にポイントで貨車を振り分け、さらに方面ごとに到着駅の順番に自動で貨車を並べ替えて、また列車として出発していく・・・。
すごい設備なのですが、今から思うと、ここまでするなら、トラックのほうが各自、方面別に直接向かえばいいわけですから早いのです。
そのスピードの差で、この施設が稼働する頃にはほぼトラックが完全に優勢になったのはご承知の通り。

でも現在の宅配貨物や大規模ネットショップの流通施設で使用される自動仕訳の原型のような設備を作り出していた、当時の技術陣はやはりすごいと思います。

 

若い人の志望動機

県庁の方との話の最中、社員の平均年齢の話から、若い人の運転乗務員への就労の話題になりました。
運輸業界のなかでは、若い人を採用できないことは大変深刻な問題になっています。
景気が悪くなり、特にここ数年はひどいものですが、逆にその中でも採用したくても人が集まらないという状況は、年齢を問わず変わりません。

理由は様々でしょうが、昔の「同じ年齢でも他の業種に比較して賃金水準が高い」という図式が変わってきている事も大きいと思われます。景気悪化による運賃水準の低下、労働時間短縮の傾向から、以前のようにはいかないという事情があります。

それに輪をかけるのが中型免許制度の導入で、業界としては一部見直しを求めています。ただ、これは安全を考えての制度で、諸外国の実情と比較しての事でもあるので致し方ない面はあります。

私として印象に強く残っているのは、二十年位前までは面接時に、応募の理由を多くの若い人が「運転が好きだから」「車が好きだから」としていました。
そうなると最近の若い人が免許をとらない、免許があっても運転しない、運転したくない、あまり車に興味ない、という傾向も、大いに関係していると思うのです。

復興とトラック

トラック協会主催の復旧・復興支援の事業者としても役割と題したセミナーに参加しました。
震災から1年が経過し、本格的な復興事業が開始することにより、今後5年程度にわたり関東から東北への輸送需要が高まるとの事です。
輸送品目としては建材などが主になるのだろうと思いますが、数年間に限定される需要であるために、必ずしも車両や設備ふやすことが難しいという事情があります。又、東北から関東への貨物は見込めない、燃料費は高止まりしているといった問題もあります。
震災後は、自動車を運ぶ陸送車の不足で、その輸送の手配が難しいという状況は既に起きています。
繁忙期を中心に車両の手配がつかなくなるという事態も生じるかもしれません。

 

時代の変化

当社の創業は昭和10年。戦争による統合令があったため、途中10年間の中断の後、昭和27年に再開しました。その2年後、私の父が入社しました。
父は卒業後、中学の教師をしていたのですが、祖父が倒れたことで家族、兄弟の生活のこともあり、やむなく従事したのです。
時代は当然今とは全く違います。当時の運輸業といえば、特殊な業種、イメージの良くない業種と見られていました。父が特に嫌っていたのが「クモスケ」との揶揄。
それを払拭すべく格闘してきたのが父の半生とも言えます。
もともと小説家になろうとしていた父ですから、当時から業界の問題や社内報、社員教育のための内容をこまめに冊子にしていました。今年の初め、書庫を掃除している時にたまたま何冊か見つけ、読み返してみると理想への熱意があらためて伝わって来ました。
父より引き継いで19年になります。以前にまして時代は変化して、人々の価値観が大きく変わる昨今です。本当の意味で、お客様に必要とされる会社になるよう努力して参ります。

埼玉会館のタイル

昨日の埼玉会館の搬入口で待機している車両です。早朝から夕方まで乗務員さんも大変です。
前川國男氏設計の埼玉会館。最近、歩いて脇を通るたびにこの茶色のタイルが目につきます。打ち込みタイルといって、コンクリートの型枠の役目をしながら固定されたもので、貼り付けられたものではないそうです。

今の埼玉会館は2代目なのですね。昭和天皇の御成婚を記念しての建設だったそうですが、現在の建物も大ホールと会議室のある棟と2つになっていますが、初代会館も本館と別館で出来ており、当時景気の良かった蚕糸業の会社が事務所としてこの場所を使用したいとの希望があったことも建設への推進力になったようです。今で言えば民活みたいなものですかね。
事務所がある別館の屋上は、屋上庭園となっていましたから、現在の建物にも通じるものがありますね。

スコアボード

先週の高校野球の試合。吹奏楽部の皆さんの応援に、応援団の熱烈な声援もむなしく大差が・・・。

高校野球に西鉄ライオンズと久しぶりに野球の話題で、ふと興味が湧いたのがスコアボードの事。

昔はどこも板がひっくり返って点数がでてくるというもので、甲子園などでは高校野球の選手の名前は水ペンキで書かれていましたから、雨が降ると消えかかったりしていたものです。プロ野球でも地方球場では暑いからか、半開きの向こうから試合を見ている人がいたり。
そんな時代ですから、当時小学生の私は、ドームになる前の後楽園球場の電光式スコアボードに、ものすごく反応していました。たくさんの電球で点数や選手名どころか、ミスタージャイアンツのキャラクターが、打ったり走ったりしているのですから。実際に球場に観戦に行った時には目を奪われていました。両サイドの派手な看板に「なんでP社なの?」と、その会社に勤務している叔父にしつこく聞いたりしていました。

その後、オーロラビジョンなどが出てきて派手になっていたわけですが、近所の野球場などもいつのまにか自動式になっていたので、今のスコアボードはLEDを使っているのだろうと思いました。ところが一般的には「磁気反転式」という方式なのだそうですね。つまり小さい板もしくは箱を、磁気で反転させて2色又は4色を変えた、その集まりで数字や名前を表示しているようです。動かすときだけ電気を使うのでLEDよりも省エネというわけ。

スコアボードの中で人が板をつけかえたりはしなくなったわけですが、小さい板が相変わらずひっくり返って表示していたわけですね。