さいたま市の川合運輸株式会社です

再発防止への改善

頻繁に納入で伺う場所でも、直接の取引先ではないため、その会社から納入ルールの詳細などの通知を書面などで頂くケースはほとんどありません。
納品をした乗務員が、現場で担当者から聞いたり、指示されたりした内容を、次に納入する乗務員に引き継いだりという形がほとんどです。
そのため、社内で徹底を指示する際に「このような場合にはどうしたらよいか」などの不明点、あいまいな点が出てきてしまいました。

今回はその納入先におじゃまして、今回の件を謝罪すると同時に、指摘事項の詳細、および現状の納入に際してのルールをお聞きし、現場での説明もしていただきました。

それによって具体的な運用ルールは確認できたのですが、また別の不明点がでてきました。
納入先からの指摘事項のひとつ、「正確でない番号が記載されている。」この理由。
再度、社内で当事者の本人に詳しく聞き取りをしました。ようやくそこで判明したのが、ある部分の項目に記載しなければならない番号を別の数字と勘違いしていたこと。

原因のひとつが、この単純な思い違いでした。そのことが「不正確な記載」となり、乗務員を特定しての指摘に至ったのです。
当初はこのことが浮き彫りになっていなかったのです。そのままでは再度クレームの発生となったことと思います。

結局第一の原因は、納入ルールのすべてを正確に把握していなかったことになります。
そして、このルールが同じく正確に全体に周知されていなかった事も原因となります。頻繁に納入する場所、慣れた場所という油断がありました。

今回の件をきっかけとして、直接的な指導だけでなく、現場からの日々の情報を、現在よりもより、多く吸い上げられるような体制にすべく、点呼方法の改善、および報告の場を新設することになりました。

クレームの発生

今年最初に目標にしていたクレームゼロ。ところがクレームの発生は意外なところで発生します。
今回はお客様の荷物を届ける納入先の会社から発生してしまいました。内容は納品ルールを遵守していない運転手さんがいるというもの。しかも運転手名まで指定しての内容。こういうことは比較的異例の事です。

通常、納品先ごとにいろいろなシステムをとっていますから、納入先ごとに様々なルールがあります。
たまにしか行かない場所もありますが、頻繁に行く場所ももちろんあります。今回発生したのは、頻繁に行く場所。それだけに、指摘されたことには驚きました。

今ではどちらの納入先もセキュリティの問題から厳格になっていますが、今回の内容はどちらかというと単純な部分の不徹底。該当の乗務員さんに事情を聞き取りして、注意をうながしました。
本人も、必要なルールは守っているつもりで作業をしていましたが、1箱だけの納入だったので、すぐ終了することもあり、駐車位置などを指定の位置に停めることを守らないことがあったことを認め、以後十分注意します。すみませんでしたと謝罪しました。

以前ですと、だいたいこの時点で、社内の周知、および客先への報告となりますが、以前に触れた、原因の分析。なぜ?を繰り返してゆくと、ここまでで把握した内容では腑に落ちない点が出てきます。それに、社内への周知に際しての細かい運用内容で不明点が出てきました。

お得意さん

写真に載っていた最初のお得意様。
当時バイクに乗っていいた人は珍しかったと思います。
どこかの郷土資料館に手動動力の農業用の機会に、この会社の名前がありましたので、もともとそのような製品を製造しながら、内燃機関を動力とする機械の製造にのりだしたのでしょう。
最近叔父から、エンジンは富士重工から調達して自社工場でトラクターなどを製造していたと聞きました。
それこそ本当に全国を一緒に回って売り歩いたというのです。後に、祖父は寝るときには、お得意さんの方角には絶対に足を向けなかったと、よく聞かされました。

時代がくだり、需要の変化もあったのだとは思いますが、耕運機などを運ぶことは無くなって行きました。
二十数年前までは、その工場も残っており、おそらくは一部海外などで生産しながら営業されていたのではないかと思われます。
運送でのお客さんではなくなっていましたが、何かの所用で数回訪ねたことがあります。事務所の床は油の匂いのする、茶色い木の板張り。ギシギシ鳴らしながら奥へ行くと、「第一応接室」などと黒い板に手書きの白いペンキで書かれてあり、往時の活況を思い起こさせる建物でした。
今は既にマンションなどになっていて、面影はありません。

昭和一桁 創業間近い時代

この写真も昔の社報の冊子に載った写真です。最近、おそらくはこの印刷に使用したと思われる台紙付きの写真が見つかりました。

場所は川越、旧市街に近いあたりです。左側に見える参門は川越夜戦で有名な東明寺です。
運転台にいるのが創業者の祖父・川合秀丸です。荷台に立っている前掛けの子供が先代の父・川合政一です。
先代の見かけの年齢からすると、まだ創業前の昭和7、8年と思われます。

ひときわ目を引く、バイクに乗っている人が、後の最初のお得意様になる、農機具などを製造販売する会社の社長さんです。
この会社の新製品の出荷を記念しての写真だったのではないでしょうか。

義理の叔父によれば、この社長さんと祖父が一緒にトラックに乗って、あちこちをまわり、製品を売って歩いたということなのです。
当時では、ある意味それが先端の販促活動だったと言えるのでしょう。

創業は昭和10年、中古のT型フォード1台とありますから、この写真の時期の後、運送業として発足したことになります。名前もお客さんの商品名にちなんで「日の出運輸」。
その後、お得意さんの工場の移転と同時に、会社も移転したのが、昭和15年。丁度、国鉄の全身である鉄道省の川越線の開通の年で、場所もその川越駅の近くでした。

義理の叔父から聞く

私が、会社に入った頃、修理を依頼する業者さんは複数あったのですが、難しそうな修理はいつも老舗のある修理工場と決まっていました。
又、バッテリーの交換なども必ず決まった業者さんにお願いしていました。
その頃は私は聞かされていなかったのですが、実はその二人の社長さんは、祖父の大変仲の良い友人だったということを後になって聞きました。
商売をはじめる頃、これからは自動車輸送だということで、運送会社を始めると祖父が言い、それなら俺は修理をやる、それなら俺は電装だとそれぞれ商売をはじめた仲間同士だったのです。

それなら、その人達をもっと話をしたかった、聞きたいこともあったと思うのですが、今ではそれはかないません。

私が引き継いだ後、そのへんのことを教えてくれたのが、義理の叔父です。
先代の妹と結婚した人ですが、結構前の挨拶で一度だけ会った時のことを話してくれました。一度倒れたあとなので、体が不自由そうだったようですが、非常にざっくばらんな人柄で、その時の様子を語ってくれました。

当時、車の運転をすること自体がまだめずらしく、それなりの技術がないとできないことで、例えば修理にしてもある程度、自分でできるようでなければ運転できない、冬になれば不凍液などない当時、毎日冷却水を抜かなければならなかった、など聞いて初めてなるほどと思うことばかりです。

人から聞いた祖父の話

先代から引き継いで、協会の会合に出席した時のこと、高齢の社長さんが私のところへ来て懐かしそうな顔をして「あんたのお祖父さんは、月末になると奥さんに内緒でよく金を借りに来たんだ」と笑って話をしてきました。
要するに、若い衆に仕事の後でお酒を振舞っていたのですが、月末になると小遣いがなくなってきて、奥さんには怒られるので、同業者の社長に借りに行き、借りたお金でみんなにお酒をごちそうしていたという事です。お酒はいいですが、要するに奥さんが怖かったのでしょう。

また意外なこともありました。当時、引越の見積であちこちのお客さんを訪ねていた時のこと、名刺を見たお客さんが、「もしかしておたくは・・・の川合さんですか?。あなたの年齢ならお祖父さんになるのかな。知っていますよ。」となりました。
戦前に創業したものの、トラック輸送にかぎらず、様々な交通事業が、戦争に向けて強制的に統合され、個人営業はできなくなった時期がありました。この商売も、地元の通運会社に統合され、祖父はその会社の仕事をする形になりました。戦後になり、一定の時期を経て、なにがしかの権利を得る資格が整った時に、会社から独立することを許されたのです。その時のお客さんは、当時の通運会社の事務職の人で、その頃の手続きでお世話になった人だったのでした。
戦時統合令という時期があったとは、もともと聞いていましたが、その辺の事情はこのとき初めて知ったのでした。

祖父の話

私が生まれた時には、すでに祖父は他界していましたので、どんな人だったかは話でしか知りません。
ただ、小さい時から祖母や父が聞かせてくれる話しは、笑い話的な話ばかりでした。

祖母が横着して今日はお風呂は休みと言ったら「そんな風呂なら要らないだろ」と薪割りで風呂ごと壊してしまったとか。その後、風呂が新しくなり「俺のお陰で新しい風呂に入れるんだぞ」と言ったとか。

たいていこの種の話ばかり繰り返し聞かされてきました。
どちらかというと、祖母も先代も亡くなり、たまたま他の人と話している時に新たに祖父のことを聞いたという事が多かったのです。

住宅と車

週末、たまたま住宅関係の展示会に行く機会がありました。
住宅の展示会なのに、入ってすぐに目に入ってくるのは日産のリーフ。そういえばあまり近くで見たことはなかったのでじっくり見てみました。
エンジンルーム、じゃなかった、ボンネット内を見ると、一見エンジンがあるのかなと思うような部分があります。これは電気の主要機器をわざと、上から見た時にエンジン風に見えるようにデザインされたようです。ようするにヘッドカバーのように見えるわけです。
トランク側にまわっても電池らしきものは見えません。バッテリーは床下あたりに装備されているようです。
で、やはり問題は航続距離。200kmとの表示もありますが、実質160kmという話も。しかも高速などに乗ると短くなってしまうようなので、やはり通常の使い方は無理そうです。あと、リチウムイオンを使用しているので、どうしても使用しているうちに充電できる量は減ってしまうことは避けられないようです。

本来、車の展示会ではないので、隣へ。家庭での燃料電池のシステム。発電した電気の蓄電機器を覗くと、見慣れた形の箱が・・。以外にも鉛バッテリーを使用しているとのことでした。鉛バッテリーといえば基本的には車で使用しているものと同じになります。寿命を聞くと、10年との答え。車のよりは長いのですね。
なぜ鉛バッテリーなのかと聞くと、もしこれをリチウムイオンにしたら値段がよほど高くなってしまうからだそうです。

以前からしたらどれもこれも最先端ですが、もうすこしという感じです。

社内報再発見

当時、先代が作成していた社内報も、同じ形でずっと続いていたというよりは、ときどき形を変えて発行していました。表紙に写真が入っていたようなものもあれば、文書だけの新聞形式なものもありました。

有限会社から組織変更して株式会社になったときは、それまでの沿革もおりまぜて、高度成長期の熱気の伝わる内容であったのが印象深いです。

社内報だけではなく、昭和40年代後半かとおもいますが、トラック事業についての問題点をテーマに冊子まで作っていて、だいぶ後になって協会関係の人から、「あの冊子、まだありますか」と問い合わせがあったことがありました。

その他、研修会に使用する資料などがありましたが、私にしてみれば、あたりまえのようにあふれていた書類だったので、機会あるごとにその後、処分したりしたうえで、主だったものだけ残していました。

最近、古い書類を整理していたときに、私の奥さんが昔の社内報やら、研修会の資料などを見つけ、興味深げに「これ何?」と聞いてきたので、簡単に説明しながら、私は別の仕事をしていました。ところが、奥さんはいつまでも、ずいぶんと熱心にその資料などを読んでいました。その後、研修会にゲストとして招いた元校長先生から会社宛てにいただいた文章なども含め、先代が取り組んでいたことを再認識して、今の時代にアレンジしながら生かしていこうよ、という話になったわけです。

47年前

約47年前の私です。
一緒に写っているのは当時の社員の人。

この人は運転免許を取得する前から在籍した人です。つまり助手として入社した人で、その後に免許をとってから運転するようになりました。
この助手という役割が、現在の常識ではわからないと思います。
昔はエンジンの始動ひとつにしても手間がかかり、荷物の積卸しが、今のようにフォークリフトなどはない時代ですから、助手という立場は必須だったのです。

それに運転手の立場からすれば、安全確認の役割もになっていますから、横に乗っていて居眠りでもしようものなら、わざとブレーキを踏まれて起こされたりという話もよく聞きました。

トラックは当然ボンネット型。おそらくバスのほうが先に今のスタイルになっていったのではないでしょうか。

この写真自体は、今回たまたま出てきたものですが、私にはなじみのある写真です。
元教師で文章好きな先代の父が、このころ早くも社内報を出していて、表紙になった写真なのです。